下増田小学校の避難所運営
3月11日(金)
15:40パトロールしている車から「大津波警報が出ています」との放送が聞こえた。地区の住民が「貞山堀を越えてきた」とか「もう津波が来てるぞ」と言いながら避難してきた。
校庭に残っていた子どもと、避難してきた住民がいっしょに校舎に入ることになった。避難所の始まりだった。
廊下、階段は多少の混雑と騒ぎあり。子どもが手元から離れないように気を付け子どもの呼名を時々しながら移動。屋上に上がると雪が降ってきた。地域住民も増えたので、フェンスに近寄らぬよう大声で注意した。
津波の先端は耕谷の道路を横切り、西に向かっていた。車や様々な物もたくさん流れていた。増田川も次から次へと様々なものが逆流してきた。
閖上の方では炎と煙が上がっていた。
公民館の職員や消防団の団員が柚木橋付近にいる人に、学校に避難するように呼びかけていた。
柚木橋から田んぼの方を見ている人が多かった。流されていく車や人を助けたいが助けられないという話が聞こえてきた。
学校の子どもは音楽室へ移動するようにという指示あり。屋上から降りて音楽室へ移動。家庭科室、理科室、図工室などには家族づれが入る。全身が濡れ、外からずっと土足だったが、人の多さもありやむを得ず音楽室に土足で入る。迎えに来た保護者で3階は混雑していた。
図工室にお年寄りと乳幼児を抱いた親子を誘導し、乳幼児とお年寄りには保健室から持ってきた布団を利用するよう声をかけた。
公民館前交差点の排水口から水が噴き出す。校舎北側の駐車場の排水口からも水が噴き出す。やがて駐車場全体が浸水し、プレハブ倉庫と体育館の間から校庭に水が入っていく。この後水位が上がり、20時頃には水深50cmほどになり、駐車場の乗用車はナンバープレートの上まで浸水した。公民館の駐車場は浸水しなかった。
音楽室に職員が集められる。暗くなってきたことへの対応と、プレハブ校舎1階が浸水する懸念についての話がでた。@3、4年担任はプレハブ校舎の1階のランドセルを2階へ運ぶ。Aトイレの対応、ごみ箱を集めてごみ袋をかぶせてトイレに設置。B明かり探し。懐中電灯やろうそくなどあるだけ探して集める。教材などで使ったものや学級に残してあるものも探す。Cカーテン外し。
カーテンをはずして毛布代わりにすることに。もう暗くなっており懐中電灯で照らしながら。カーテンを外す人、ピンを外す人などで3、4人一組で。脚立などはなく、窓枠に登りながら。生活科室で足場の悪いところを上がっていたときに強い余震があり、落ちるのではとどきどきした。
公民館から発電機とライトが持ち込まれた。
市職員が来ないため、公民館職員と本校職員で相談し、避難者を本校で受け入れることを決定。校長が本部長となる。
帰宅できない児童(五十数名)は音楽室、一般の避難者は理科室と家庭科室、高齢者・病弱者は図工室に入る。名簿を作成する。名簿作成にあたり、保護者が校舎内にいる子は音楽室の名簿からは除くことに。保護者のもとへいくように子どもたちに伝える。バインダーに罫線紙をはさんで鉛筆で記入。6年生から順に声をかけ、集めて名前を聞き記入。妹弟が一緒の場合は一緒に話すようにと伝えた。教師名と音楽室にいた数家族も記入。
宿泊者313名、美田園地区の住民も多い。
公民館職員が無線で生涯学習課と一晩中交信していた。
柚木橋から見えるところで、車で流された人が救出を待っているが、水が深くて助けられない。
夜になり、また、流された人がきた。胸のあたりを強く打ち、震えも止まらなかった。国際クリニックの先生に診察して頂き、地域の人たちに手伝って頂きながら毛布をかけ手で体をさすり保温につとめた。
21時頃、スーパーマーケットのかごに入った食料が届いた。配分するには難しい食料もあったが、消費期限の制限もあったので、3階各所に提供した。1人当たり、食パン1枚、水ペットボトル500ml、魚肉ソーセージかバナナ半分。
夜遅くなっても消息不明の人を探しくくる人が多かった。教務は、昇降口で外来者の対応をしながら臨空公園近くの排水機場から避難してきた4人と夜を明かす。
夜空は、星がとてもきれいだった。閖上、北釜方面で大きな火事。仙台港方面も真っ赤になっていた。
3月12日(土)
5時に起床し、本日の作業を確認する。学校周辺の様子を確認する。帰宅者、入校者の名簿を作る。職員の担当を決める
対策本部からの食糧が届いたので、職員が配布する。1人当たり、パン、ソーセージ、ドーナッツ、お菓子。
停電のため、校舎内の水道が使えない。トイレは、小は流すが、大は、女性は紙に包んでごみにし、男性は外に作ったトイレを使うことにする。職員数名で校庭の端にブルーシートを広げて囲いを作り、中に穴を掘ってトイレにする。
3階教室だけでは人数が多いので、一般の避難者を2階教室(6の1・6の2)に移動させる。公民館から、ブルーシート、ござ、座布団を運んで敷く。体育館から、ござ、体育用マットを運んで敷く。
仮設トイレ2基が届いたので、昇降口前に設置。大便は仮設トイレを使用することにした。
美田園東部地区の水が引いて、宮農高の校舎内に避難していた生徒、職員100名以上が徒歩で本校に避難してきた。体育館に入ってもらう。
水没した自宅で一晩頑張っていた人が避難してくる。低体温になっていたが意識はしっかりしていた。図工室で介抱する。閖上や仙台空港の辺りで消息不明になった人を探しに来る人が多かった。探しに来た人には記名してもらう。
昼に、おにぎり1こと水ペットボトルを全員に配給した。
フジパンの社宅が学校の前にできたということで、フジパンの東京の工場から多量の菓子パンの納品があった。後で配ることにした。
教務が、美田園地区を巡回した。カワチ、みたぞの保育園、美田園駅から東は冠水していて進入不可。そがクリニックより先も不可。美田園西部地区は道路に泥がたまっていた。学校の駐車場にも泥がたまっている。
市教委から以下の指示があった。児童の安否を確認する。職員の支援体制をつくる。3月14日・15日は市内小中学校臨時休業、保護者へ連絡する。3月16日の対応は3月14日に連絡する。
新潟県見附市から支援の方が4名来た。職員以外のボランティアは初めてだった。1階から3階への物資の搬入などを手伝ってもらった。数日いるということだったが、翌日には別の場所に行ってしまった。
夕食は、おにぎりと魚の缶詰を配った。
夕食後、本日分の宿泊者名簿を作る。宿泊者201名。犬2匹、猫1匹。
職員は音楽室で避難者といっしょに寝た。教務は、訪問者に対応するために保健室で寝たが、寒くて寝られないので、未明から駐車場の車の中で過ごした。自宅から持ってきたラジオと懐中電灯を使った。
3月13日(日)
美田園東部地区の水が引いて通行可になった。県道の毘沙門橋から南は、流された家や木が積もっていて通行できない。
朝食は、菓子パンを配布した。
9時、教職員全員で打合せを行う。避難・宿泊者への対応は教職員が当たるが、行政の職員のつもりで対応することを指示する。
職員の係分担をつくる。@受付係 A物資係 B部屋係 C環境整備 Dレク係
学級担任が家庭訪問をして子どもの安否を確認した。自転車で行った職員が多かったが、タイヤに泥がはさまってたいへんだった。杉ヶ袋の光景を見てショックだったようだ。
子どもの遺体が発見されたという情報が入る。子どもの行方不明、死亡を受け入れる心の準備をするように学級担任に話した。
担任以外の職員が職員室内を片付けた。
訪問者への対応は、受付係が担当し、正確で分かりやすい情報を提供する。昨日までの名簿を整理し、人探しに来た訪問者と宿泊者を区別する。他の避難所を紹介する。
校舎北側駐車場の泥をよけて通路を確保する。昇降口のまわりを掃除する。
ヘリポート設置の要請があったので、西校庭に線をひく。
灯油、ろうそくの確認、燭台を作る。
土足をやめる。公民館、幼稚園からスリッパを借りる。
昼に地震発生、津波警報が出された。沖合のヘリコプターからの通報で、音声放送による広報があった。
近くにいた人が大勢避難してきたので、校舎内に誘導した。3階の廊下が避難者でいっぱいになった。実際には津波はこなかった。文句を言いながら帰っていく人が多かった。避難者は土足で入ったため、帰った後に廊下、階段の掃除をした。
体育館に宿泊していた宮農高生は全員帰宅した。
水没していた家からの救出者が来た。
食料品など個人からの寄付が多かった。
車が動くことを確認し、同じ方面の人が乗り合わせて帰宅し、翌日出勤することにし、半数の職員が帰宅することにした。
宿泊者156名
3月14日(月)
朝、飲料水、在庫の食料を配布した。各部屋の宿泊者に、部屋の中、廊下を掃除してもらう。
職員の意思統一をする。われわれは奉仕者(ボランティア)なので、宿泊者の言うことはまず聞くようにする。職員の指示が違っていた場合は謝る。
職員室が使えるようになったので、本部を職員室に移動する。家庭科室は、食糧。保健室は、水の貯蔵・物資の搬入口。3階教材室は、物資の保管場所とする。それぞれの部屋に物資を移動する。
宿泊者へ一日の予定を示す。在室か外出かを各部屋の名簿に記入してもらう。
公民館に通電。
宿泊者129名
3月15日(火)
宿泊者の着替えの部屋を決める。
昇降口前の外の水道は使用可になったが、飲料は不可。
公民館での携帯電話の充電を可とする。
放射性物質を含んだ雨の情報あり、未確認だが昇降口に貸し出し用のかさを用意した。
地震が起きたら、各部屋の真ん中に集まる。
津波警報が出たら、2階の人は3階の部屋へ移動する。外から避難してきた人は3階の廊下へ。
部屋にマット等を敷く。
教頭が遺体安置所を見に行った。
学級担任3名が車で家庭訪問に行った。耕谷地区の子どもが無事だったことを確認した。
人探しで見つかる人、見つからない人、個人や会社からの物資の寄付、遺体確認情報、児童の行方不明情報、市の対策本部からの連絡、物資搬入等、訪問者が多かった。嬉しい支援と、悲しい知らせが次々やってきて、天国と地獄を行ったり来たりしている。停電のため校内放送が使えない。職員への連絡や物資の移動など、すべて階段を上り下りしなければならない。寒さと寝不足、食事の内容が質素なので体力が落ちてきているが、テンションは高い。受付担当しながら涙が止まらなかった。
体は疲れているが、寒くて熟睡できない。大きな余震ばかりでなく、長野県や山梨県など遠くで大きな地震が起きている。職員をどう動かすか、宿泊者にどう対応するか、3時に目が覚めてしまって眠れなくなる。
宿泊者114名
3月16日(水)
暑くないのにのどが渇くのは、涙。目の前まで津波が迫った下増田。
ここは避難所の最前線。5日間で、のべ913人が宿泊した。
究極の喜怒哀楽、超多様な人間関係、前代未聞の情報、超アナログの作業、50年の人生経験で能力の限界を突破している。
しかし、生き延びた自分に与えられた課題、試練を何とか乗り切りたい。そのためには、スタッフの協力しかない。
校長の「やるしかない、全員で」の言葉に、この人について行こうと思った。先生とは全く違う仕事、だれもがやったことがない仕事。しかし、集団をまとめる、動かす能力、協力することの大切さ、企画運営の能力、これは教員と共通するものだ。
先生方はやってくれると信じている。いつまでになるか全く先が見えないが、投げ出すわけにはいかないし、投げ出したくない。目指せ、日本一の避難所。
職員の勤務は24時間の2交代制にする(9:00出勤、翌日9:30退勤)。
那智が丘小学校等からの応援の職員が来たので、物資を運ぶ、掃除、調理、配食、トイレ周りの掃除、昇降口の掃除などの作業を割り当てる。
子ども3名の死亡が確認された。名札をつけていて身元確認ができた子もいた。
寒くなかったか、毛布が不足していないかを宿泊者に確認する。
体育館を使用可とする、子どもは大人といっしょに。東側の壊れている窓に注意。
朝食から、自衛隊による炊き出しが始まった。残っていたおにぎりでぞうすいを作ってもらう。ほかに汁もの、つけもの。自衛隊の炊き出し用に、米30kg、野菜の搬入があったが、この先は未定。
日本テレビ系テレビインタビュー、産経新聞大阪本社インタビュー、日刊現代写真撮影などマスコミの取材があった。
学校の駐車場、歩道、公民館周辺の泥よけ作業を行った。
夕方、公民館まで通電してから2日後に学校もやっと通電。校舎内の水道も使えるようになった。
3月17日(木)
同室の人とは仲良く協力するように呼びかける。
水道の水は使えるようになったが飲料は不可。食事の時にペットボトルを配る。
感染症予防のため、石けんを使ってしっかり手洗いをする。
手伝いの教員には、各係のサブ、物資運び、掃除などの手伝いをお願いする。
市対策本部から毛布の追加があった。
教室のカーテンを復元する、1の1、宿泊者の部屋。
メキシコのテレビ局テレビアステカが取材にきた。インタビューに答えた。
雑炊、汁もの、ごぼうきんぴら。残ったごはんや、もらった野菜などを組み合わせて献立を考えた。
南相馬市からの避難者あり。市対策本部に問い合わせをしたら、仙台市で対応するという取り決めがなされているという返事。しかし、どこが窓口なのかはっきりしない。とりあえずここに一泊してもらう。ほかの宿泊者の心情も考えて、一階の教室に寝てもらう。翌朝は、仙台市台原の親戚の家に行ってみるといって出て行った。
新潟県から車で灯油を運んできた人がいた。灯油倉庫は満タンになった。
保健師さんが来て診てもらった。かぜ症状の人数名。
玄関の施錠は20時に、その後はチャイムを鳴らしてもらう。
宿泊者104名
3月18日(金)
宿泊者の出入りは少なくなり、長期化、固定化してきた。協力してくれる人が増えてきた。
朝の職員打ち合わせの項目を決めた。
杉ヶ袋地区の人は、日中、自宅に行って水没した家の片付け作業を行っている。防犯のため夜回りも始めた。
美田園地区に食料を配給するために、公民館から放送で案内した。16時頃まで人が来たが、最後は品切れになり、遠くから来たのに、もらえないのは困ると抗議された。配給の有無を午前中に放送することにした。
市からパンが配給されたが消費期限が短い。2食分の量が来るが、翌日までに消化できない。
教室にあった子どもの荷物を空いている教室に移動した。
宿泊者96名
3月19日(土)
支援物資の古着を配布する。
職員の係分担、2交代制の引き継ぎがうまくいっている。一日休みがあることでやる気が復活している。
杉ヶ袋地区の人は、自宅の片付けに行っている。昼食時に戻らない人のために、朝におやつを出す。
美田園地区の中学生などのボランティアが来るようになった。
美田園地区の2人が、お風呂ボランティアを募ってくれた。2人に連絡し、調整してもらう。
昼食はカップめんで、大きなやかんを公民館から借りて3階で給湯、2階の部屋の人の分は自衛隊の炊き出しでわかしてもらう。
美田園地区にパンなどを配給。400人に配給。
NTTの無料公衆電話が開通した。
宿泊者96名
3月20日(日)
手伝いの教員、美田園地区の人のボランティア、宿泊者の協力で助かっている。
美田園地区のお風呂を借りに行く。午前12名、午後2名。
養護教諭と保健師でメンタル指導、はじめに全体指導で次に個別指導を行う。
美田園地区にカップラーメンを配給した。
杉ヶ袋地区の人へ水道水、ペットボトルの水を補給した。
部屋のリーダーが食事を取りに来ることにした。
深夜に発熱して国際クリニックに行った人がいた。
宿泊者98名
3月21日(月)
放送室から校内放送で曲を流し、ラジオ体操を行った。
杉ヶ袋地区の人への昼食、おやつ等の支援。
4月1日までの学校の予定の提示する。(3月30日授業日、31日修了式、卒業証書授与式)
ブランコ、遊具の周りのゴミ拾い、掃除。部屋のカーテンを回収し、プレハブ教室へ復元。
古着は、体育館に広げて選んでもらう。
美田園地区に、みかん2、ジュース、おかしを配給。耕谷地区へも配給。
銭湯へ、送迎バス4台が来て送迎。60数名参加。
発熱者2名は、一階の教室で寝てもらう。
宿泊者100名
3月22日(火)
自宅の片付けに出かけている人を温かく迎えたい。
杉ヶ袋地区で頑張っている人、本村上地区でボランティアで頑張っている人に支援したい。
美田園地区には食糧で支援したい。
正門周りの掃除、玄関レールの掃除、プレハブ教室昇降口の掃除、カーテン復元
洗濯ボランティアあり。
広浦地区の自宅で家族3人で頑張っている人に食糧を支援。
学校教育課から、避難者を体育館に移動させ、管理者を公民館長にするように指示があった。公民館長が生涯学習課に行って、公民館への管理移譲を確認する。それを受けて、今後の対策を公民館と学校で協議する。
宿泊者100名
3月23日(水)
校長から職員へ、避難所を体育館に移動することについて説明をした。
校長から宿泊者に説明をした。
移動日が決定したので、引っ越し準備は今日から。段ボール、ストーブを体育館へ運ぶ。
衣類用のゴミ箱を設置する。食材の仕分けを行う。
お風呂ボランティア8人、洗濯ボランティアあり。
美田園地区への配給が最終日になり、来る人は少なくなった。265人に配布。みかん、ビスケット、ジュース。
宿泊者100名中、日中、外の作業に行く人50〜60人。
体育館へ移動する人を確認する。
下水処理の問題があるので、風呂ボランティア、洗濯ボランティアは一時凍結。
宿泊者100名
3月24日(木)
体育館へ移る希望者は67名。
公民館職員と検討した結果、5ブロックにすることになった。エアーマット、段ボール、敷物を敷く。
物資の移動を行う。
公衆電話の移設完了。
仮設トイレ移設完了。
明日、出る人は使った毛布を持って行く。追加で新しい毛布がほしい人は受付へ。
残る人には午後に新しい毛布を配る。
宿泊者92名
3月25日(金)
体育館への移動63〜65名。
部屋の敷物をはがし、体育館へ移動。体育館の区切りの場所を決める。シート、マットなどを敷く。段ボールなどで、区切り壁をつくる。荷物を区切った場所に入れる。
14:46黙祷 教室避難所解散。