伊達藩の復興事業
慶長16年(西暦1611年)に津波が来襲したとき、伊達政宗は、仙台城にいた。
慶長7年(1602年)に仙台に移住して9年目、都市計画に基づいた城下町、藩づくりの初期段階だったと思われる。
三陸海岸だけではなく、南部の砂浜まで襲った津波は、政宗にとって、かなり衝撃的だったと思われる。
天文22年(1553年)の絵図には、名取郡二倉浜(現岩沼市)の記述があるが、「正保国絵図」(1643年)には、記述がない。津波により集落が消滅したと考えられる。しかし、「仙台領分図」(1670年)では、端郷として描写され、「元禄国絵図」(1701年)では、押分村之内二倉と描写され、復興したことが分かる。
津波被害を目の当たりにした伊達政宗は、積極的に復興を進めた。
1 貞山堀(木曳堀)をつくる
2 海岸に松林をつくる
3 製塩業を振興する
4 新田開発
5 奥州街道をつくる
貞山堀(木曳堀)
阿武隈川河口と名取川河口を結んでいる運河が木曳堀である。この運河は貞山堀と呼ばれ、松島湾を通り石巻の北上川まで続くもので、日本一の長さを誇る。舟による米の運搬が主な目的であったが、その掘削や閖上などの港をつくることが復興事業になった。この事業には川村孫兵衛が大きくかかわっている。
この運河は、砂浜の海岸と平行してつくってあり、津波に対しては垂直に対面する。このことは、運河の護岸や高低差で津波の勢いを弱める働きをしている。その効果を発揮したのは今回の津波であった。
松林
海岸と貞山堀の間には、クロマツを主とする防潮林を植林した。幅広く植えている場所や、2列に植えている場所もあり、集落から海岸は見えない状態になっていた。今回の津波で、そのほとんどが流されたが、津波の勢いを弱める効果は十分にあった。
津波の前の状態に戻すには、かなりの手間と年月がかかりそうだ。
製塩業
伊達藩は、川村孫兵衛に命じて、海岸近くに製塩場をつくらせている。北釜(名取市)、相野釜(岩沼市)、鳥屋崎(亘理町)、長瀞(亘理町)、亘理郡鳥海塩神社(亘理町)などが地名や伝承で残っている。製塩業という新規産業が、新たな雇用を生み、復興になった。
新田開発
津波で浸水した地域を再開発して新田にしている。しかし、今回の津波で再度浸水してしまう。
奥州街道
慶長津波の到達地点は、現在の平野部が丘陵地になる地点だと思われる。奈良時代からあった東街道は、丘陵地を通っている。奥州街道を新たにつくり、増田宿をつくった場所は、津波来襲の先端部であった。海岸近くに松林と貞山堀をつくることで、ここまでは津波は来ないだろうという場所に街道と宿場をつくったと思われる。津波防災の都市計画だったかもしれない。今回の津波は、奥州街道(国道4号線)の直前で止まっている。